自分の時間を生きられないがやつが行くところ

エッセイ

“自分の世界を生きられないやつ” だけが、行くことのできる世界があるらしい。

今日の金曜ロードショーである『猫の恩返し』を初めて見たのは、確か地元の映画館だったと思う。
ふわふわ可愛らしく、カジュアルな世界観に酔いながら平和にポテトを食べていたところ、突然鋭角なナイフを喉元に突きつけられたような気がして、映画に対して不穏な予測を立ててしまったことを覚えている。
子供でも安心して見られるような温かみ溢れる絵柄で、まさか人生を叩き上げにくるとは思わないじゃないか。

ジブリはこう、娯楽という顔をして、人間の奥底に燻る影を的確に刺しにくるあたりがプロだと思う。
私が社長だったなら、ジブリの名前は「狩人」もしくは「殺し屋」になっていたことだろう。


”自分の時間を生きる”ことは、すなわち刹那的に今を生きる、生をまっとうし、丁寧に味わえている状態だと思うのだけれど、それが365日毎秒しっかりできている人は、この世界において実際にどの程度存在するのだろうか。

少なくとも私は、案外世の中についていくことに精一杯で、流れの中で溺れそうな自分に必死だ。
現代流で言えば、猫の国の方が”自分を生きているやつ”がいるところなのではないだろうか。

これは”生きる”ことの主軸がどこを指すかによって変わる。
そしてその解釈の主流のようなものも、時代と共に変化しているような気がする。
“生きる”という不変な営みは、変えられないのにも関わらず。

この緻密で不安定な世界の中で、この台詞の意味を、私は今日も探している。

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