失恋しました
2024年3月中旬。一通のLI〇Eと共にひとつの恋が終わりを告げました。
彼との関係は3年半にもおよびましたが、電波を通してしまえばお別れなんて一瞬。
残念ながら私の脳は文章の裏に隠されたサイレントメッセージを直接受信する機能を搭載しておらず、鼻腔の奥から押し寄せる洪水と耳の裏に鳴り響くドンキーコングと戦いながら言質確認を取ることになり、結果的に追い打ちをかけられる形で試合終了となりました。
相手の事情もあるでしょうし、人それぞれ別れ方に違いがあることは承知しているものの、
最後の最後に教科書に載るような美しい定型文で締められると、過去の時間をすべて否定されたような、やるせない気持ちが自分を蝕むのです。
文明の利器は日々の生活を身軽にしてくれるだけなく、年月が培った想い出の血肉とやらをそぎ落とし、裏面印刷されたコピー用紙か何かに変換させる力があるなぁと感じた瞬間でした。
常識という名の偏見コレクション
“常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである”
誰もが知っているこの名言に心臓を撃ち抜かれたのは高校生の頃(だったと思う)。
周囲の”あたり前”や”普通”に馴染めない思春期のお守りのような言葉でした。
「過去に正しいと信じたルールも、成長の過程で美しいと感じた景色も違う人間が、同じものを見て100%共感できるはずがない」
「恋愛は、好意を持った2人が互いの違いを楽しみ、吟味しようと一歩一踏み込む契約のこと」
それが自分にとっての”あたり前”。
“価値観が同じ”という言葉の裏には、まったく異なる二人に共通フィルターが存在しなければならないような、まるで自分の常識があたり前とでも言うような傲慢さが隠れているように思うのです。
お別れは”価値観の違い”ではなく、相手の価値観を面白いと思えなくなったから。
それで良いじゃないか。
大好きだったチョコチップクッキーを卒業して、カカオ度数高めのチョコレートにハマるように、
人の好き嫌いなんてものは、それほどに単純明快で複雑怪奇なラビリンスなのだから。
“偏見”と”わたし”
彼に別れを告げられたとき、悲しみと苦しみが私に覆いかぶさりました。
自分をたしなめるのように、悪態と譲歩の言葉が浮かんでは消えて、また思い浮かんでは消えて…
“貴重な時間を無駄にされた”
そんな悪態が頭に浮かんだとき、私の思考は止まりました。
人生において貴重な時間。先に進めなければ無駄である恋愛。
それらの意識は、いつからか私の中に降り積もっていた言葉なのでしょう。
間違っていません。人生は有限であるし、恋愛にも質の良し悪しがあるかもしれません。
しかし、それが 常識 というホコリに覆われた 偏見コレクション だとしたら?
“わたし”の中に積み上げるコレクションは、”わたし”が心動かされる偏見コレクションでなければ意味がない。
いつの間にかホコリを被ったフィルターで覗く世界を取り出して、”わたし”の奥にある声に目を向けてみたい。
わたしのフィルターからは覗けない世界を見せてくれる彼が好きでした。
心の整理整頓を重ねて、今度はわたしにしか覗けない世界を知るために。
今日から感じたことや疑問に思うことをブログに書いていこうと思います。
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